赤い月

月明かりの失われた街はひっそりと静まり返っており、全ての生物は呼吸を止めて物陰に潜んでいるようだった。
時おり吹きつける空風が笛の音にも似た呻き声を漏らして通り過ぎていったが、草木達は直ぐに何事も無かったように振舞い、夜は変わらぬ静寂を保ち続けている。
その中を一人の男が歩いていた。
貧相な身なりで一歩一歩確かめるように前へと足を運び続けるその姿は、誰の興味を惹くこともなく今にも消え入りそうだった。
「・・・、・・・・・・。・・・。」
男は血走った目で何事かを呟いている。
「・・・っ。・・・・・・・・・も、・・・って」
生気の失われた土気色の顔が小刻みに揺れる度に締まりのない口の端からは涎が垂れ落ちていく。
それを意に介する様子も無く身振り手振りを交えながら延々と虚空に向かって喋り続ける姿は、主を失っても電池が切れるまで動き続ける単純な玩具を連想させた。
「・・・・・・ひが・・・。無く・・・。それでも、わたしは・・・」
断片的な声が何を示しているかはわからないが、男の表情は真剣そのものでそこに明確な意思が潜んでいることが伝わってくる。
「そ・・・・・・さからう・・・・・・。つな・・・・・・ろう・・・か?」
男はもう何年も待ち続けていた。
それまで手にしたものを全て棄て、ただひたすら独りで待ち続けていた。
あの懐かしくも暖かい日々が再び訪れることを信じて、襲いくる欲の全てを断って生きてきた。
酒もギャンブルも、そして愛も。
その行為が正しい結果に結びつくかどうかは定かではなかったが、他に方法を知らなかった男は愚直なまでにそれだけを頑なに守り続けた。
自らを痛めつけることでしか存在を証明する術を知らない哀れな男。
「・・・・・・・・・・・・ゆき・・・。・・・。うしても・・・・・・。・・・・・。」
ただ一瞬でもいい、刹那の邂逅であっても構わない。
やがて訪れるであろうその時の為に、男は命の全てを注ぎ込んでいた。
一縷の望みを神に託し、祈りにも似た声が静まり返った街に木霊していく。
希望を信じて。希望を信じて。希望を信じて。希望を信じて。希望を信じて。希望を信じて。
「・・・いし・・・・・・る・・・。・・・。かみさま、かみ・・・ま・・・・・・。か・・・さま。」
だがそれも終わりを迎えようとしている。
張り詰めた糸が切れてしまったかのように精神は急速に崩れ始めている。
「・・・あきらめ・・・て・・・しま・・・・・・ゆきな・・・ゆきなっっ・・・・・・・・・ゆき・・・な・・・」
男は何時から知っていたのだろう。
可能性など初めから存在しないことを。
彼がつがいで生きることを望んだ人はもうこの世には居ない。
それに今さら願いが叶ったところでどうなるわけでもない。
既に心は折れてしまったのだ。
現実を認め、受け入れることができないまま、男は覚束ない足取りで宛てもなく街を彷徨い続ける。
「・・・・・・ある・・・てきた。・・・・・・・・・しんじて・・・ゆきな、・・・・・・どこに・・・・・・・・・・・・」
だが、いったい誰が彼を責められようか。誰が彼を止められようか。
びわれた手の平からは血が滲みだし、掠れた声は風に浚われていく。
バランスを失い、一方的に転げ落ちていく命。
暗い夜道を徘徊するその姿は次第に異形の者へと変貌していく。
それは人間という役目を終え、表情を失ったのっぺらぼうの塊。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・っ!」
男は一陣の風に向かい何事かを叫んだ後、膝から前のめりに崩れ落ち、動かなくなった。

幸せとはかくも残酷なものなのか。
その温もりさえ知らなければと男は後悔しただろうか。
それとも・・・。
男の願いはもう誰の耳にも届くことはない。
夜は孤独に包まれていた。