暗い海岸線を覚束ない足取りで歩みゆくその男の姿は、まるで夢遊病者のように儚く悲しげに映る。
「きっと君を踏みにじってきた」
「そうして生き延びてきた」
男の呟きは浜辺に染み渡り、砂粒に混じって散乱する貝殻に吸い込まれていく。
遠くで灯台の明りが点滅を繰り返す度に、遠吠えを繰り返す犬の泣き声が聴こえる。
男に何があったのかは知る由もないが、理由など後から幾らでもこじつける事ができる。
全ての行動に意味を求める人間にはわからないであろうが、男が探しているのはもう見つからないものなのだ。
一度手から零れてしまったら、再びそれに巡りあうことは、砂漠に落ちた一粒の星屑を探すことよりも難しい。
男はそれを知りつつも夜の砂浜を彷徨い続ける。
見つからないから探している。生きることは、時に矛盾を孕むもの。
痛みを覚えた臆病な心と数え切れない傷跡。
喪失と失望により耐え切れなくなった希望の眩しさ。
そこには、夜の海が悲しく映る幾つかの理由が潜んでいる。
言葉は遠くに。
辺りは静寂に包み込まれた。

月と小人

全てを飲み込んだ漆黒の海から漣が吐き出されては消えていく。それとコントラストを成すかのように、浜辺では砂粒が月光に反射してキラキラと輝いていた。昼間の喧騒に置いてけぼりにされて静まり返った浜辺の様子を気に止める者は無く、漣の他に音といえば遠くで思い出したように狼の遠吠えが聞こえるだけ。何かが始まる時とはきっとこんな夜なのかもしれない。そんな予兆を仄かに感じさせる静かな情景だった。

気の遠くなるような静寂の中、まるで昔からの決まり事のように月がゆっくりと放物線を描きながら西の空を目指していると、いつの間にやら浜辺の真ん中に小さな影達がポツンポツンと散らばっているのが見える。小さな影の持ち主達は自分達が月明かりに晒されていることに気付くと、慌てて浜辺に落ちていた貝殻の一つに身を潜めたが、貝の中で彼らが動くたびに殻が震えて、それは遠目から見るとまるでヤドカリのようだった。それを知ってか知らずか中では何やらヒソヒソと話し合いが行われている。

赤の小人が云う、
「月は生物が生まれてから死ぬまでその全てを見ている。月の話を聞いてみたくは無いか?」

紫の小人が云う、
「でも月が空から降りてくるのを見たことが無い。どうすれば月は降りてくるのだろう。」

青の小人が云う、
「月は美しい旋律を好むから、空に響き渡る調べがあれば興味をそそられてやってくるに違いない。」
小人達は一斉に貝殻から飛び出すと、流れ星にあわせてタクトを振るい夜空に向かって旋律を奏でたが、月は静かに浜辺を照らし続けるだけだった。

黄色の小人が云う、
「月は好奇心が旺盛だから、不思議なことがあれば間近で見ようと近づいて来るはずだ。」
小人達は互いの手を取り合いながら貝殻を囲むようにして輪を作り、思い思いの叫び声を上げながら放射線状に広がるように倒れてみたが、月が動じる様子はなかった。

緑色の小人が云う、
「月は憎しみを嫌うから、我々がいがみ合えばそれを治めようと降りてくるはずだ。」
小人達は貝殻の上に剣を翳し、互いの帽子を取り合ってみたが、月が西の空から動くことは無かった。

小人達は銘々の知恵を振り絞り月をこの地上へと呼び寄せようとしたが、月が呼びかけに応じる気配は無く、その内に一人、二人と疲れ果て砂浜で寝息を立て始めてしまった。一日中遊び疲れてクタクタになった子供のように無邪気で満足気な笑顔を浮かべて眠る小人達。そして最後の小人が眠りに落ちた後、辺りは再び静寂に包み込まれた。砂浜に広がる景色は先ほどと何一つ変わらぬようであったが、月は漣が少しずつ砂浜を侵していることに気付いていた。何も知らない小人達は安らかな眠りに堕ちている。月は辺りを見渡すと、輝きを抑えながらゆっくりと地平線に向かって降り始めた。

小人が月を呼び寄せたのか、
月が小人に誘われたのか、
それはわからない。
物語の始まりは必然のようで、幾重にも重なる偶然の上に成立している。

音を立てぬようそっと地上へと降り立った月は漣を退けると、眠りに堕ちたままの小人達に微笑みかけ、今まで誰にも話したことの無い物語を静かに語り始めた。悲しい話、優しい話、暗い話、寂しげな話、嬉々とする話、緩やかな話。月によって紡がれた物語の断片は、教訓として押し付けるわけでもなく、他を出し抜く知恵が得られるわけでもない。ただそれが在ったという事実を語ったに過ぎない言葉の数々。けれどもきっと小人達には届いたに違いない。

大切なのは、それを信じる心。
必要なのは、それを受け入れる身体。

全てを語り終えた後に月はそう呟くと、またゆっくりと西の空へと戻っていった。

天使にだって、なれるって

猫が死んでいたんです。
十字路の真ん中でずぶ濡れになりながら辛うじて生物であったことが認識できるような・・・それぐらいボロボロな状態で。
もちろん走っている車達は目もくれませんよ。猫のことなど気付いても気付いてなくともお構いなしです。
歩道を歩いている人間も皆同じでした。
罪の分散ってやつですよ。
一人で背負うには重たすぎるが大勢で分担すれば罪悪感は薄れていく。
自分が責任を負うような煩わしい事態だけはなんとしても避けたいという気持ちが傍観者であることを選択する。
私も同じです。
不快な雨に加えてあの寒さですからね。
一刻も早く家路につきたい一心で猫が倒れているという事など気付きもしなかった。
いや、正確に言えば気付きたくもなかったんでしょうね。
私はそういう人間ですから・・・。
それを過ちだと気付けたのはある少女のお陰なんです。
全く嫌になってしまいますよね。
なんでこんな当たり前のことに今まで気付けなかったのか・・・。

男は深いため息を吐き出すと、濡れそぼつた背広から眼鏡を取り出して傍らに置いた。
外の雨は止む気配を見せるどころか激しさを増すばかりで、建て付けの悪い交番の戸が軋む音だけが室内に静かに響いている。
ストーブで暖を取りながら遠くを見るような目つきで男は話を続けていく。

あそこは比較的交通量の多い場所ですよね・・・?ええ・・・。いつも赤信号が長くて辟易しています。その時もなんとなしに行き来する車達を眺めて時間を潰しながら、信号が青に変わるのを待っていたんです。そうしたら突然一人の少女が淡々とした面持ちで、まるでそれが当然であるかのように十字路の真ん中に向かって歩を進めていったのです。その突拍子も無い行動に最初は車達もうろたえクラクションと水飛沫を浴びせていたのですが、少女はそれらを意に介する様子も無く真っ直ぐに猫の傍に歩みると、一瞬天を仰いだ後、猫を庇うようにしてゆっくりと覆い被さっていきました。
すると不思議なことに・・・あれを何と表現したら良いのでしょう。とても私の言葉では全てを説明することは出来そうにありません。云うならば、音が失われたとでも表現すればいいのでしょうか?クラクションの音も、雨粒がアスファルトを叩く音も、人々のざわめきも、全てが少女の一挙一動に吸い込まれていってしまったのです。それはまるで映画のワンシーンを見ているようでした。モノクロに彩られた光景の中、音も無く、赤いワンピースを着た彼女の動きだけがスローモーに流れてゆく。
猫を抱え上げた少女の目からは大粒の涙が溢れていました。どうして降りしきる雨の中、涙が流れているのがわかったかって?それを説明できればこんな苦労はしていないですよ。美しい、それはあまりにも美しすぎる黒い瞳でした。少女が言葉を発することはなかったのですが、見ている者の罪悪感をかきたてるにはそれで十分だったのです。気が付くと私は少女に導かれるように車道へと飛び出していました。ええ、ええ、普段はもちろんこんなことをする人間じゃありませんよ。電車待ちの列に横から割り込む人がいることに気付いても見て見ぬ振りができる善良な一般市民です。でもその時はそんな理屈や計算なんかよりも、とにかく何としてでも彼女との距離を縮めなければならないと思ったのです。少女が感じているであろう死に対する痛みと私の麻痺した感覚の差を少しでも埋めたかった。
ねぇ・・・巡査さんは『生命の重さ』について考えたことがありますか?不平等で溢れ返ったこの世界で全ての生命が等しい価値を持つなんて・・・そんなわけないじゃないですか。誰しもがその禅問答にも似た問い掛けを己に科し迷った挙句、大なり小なり目を背けてしまうのだと思うのですが、恐らく彼女はそこから一歩たりとも逃げ出さなかったのでしょう。そうでなければあの光景はとても説明がつかない。

「それで、お前はあんなことをしたのか?」
「ええ、でも後悔はしてしませんよ。あの瞬間、間違いなく私は生きていた。延々と社会に殺され続けていた私が意思を持ち・・・」

ザーザー・・・こちら○○・・・ザー、応答せよ、応答せよ。

「あ、無線ですよ。」
「わかっている。はい。こちら○○。・・・・・・ええ、そうですか、わかりました・・・。ご苦労様です。」
「どうしました?」
「良く聞けよ。」
「はい、何でしょう。」
「あの場に居た人間に確認を取ったが、誰一人お前の言う少女を見たものはいなかった。それが事実だ。」
「そうおっしゃるのでしたら、そうなんでしょうね。」
「・・・?」
「あの少女が生きるには、あまりにもこの世界は濁っている。」
「ついに気でもふれたか?」
「居るとか居ないとか、偽物だとか本当だとか、正しいとか誤っているとか、そんなことは関係ないのですよ。探していた答えがそこに在った。それのみが私にとって唯一の真実なのですから。もちろんこの話を罪を逃れるための言い訳と捉えられても結構。報告書にそのようにお書きください。ただ、あの一瞬、たったの一瞬ですが私は私の想いに忠実であれた。そんな気概はとっくの昔に失ってしまったものだと思ってたのに・・・。私はそれが嬉しいのです。」
「ただな、お前のやったことは・・・」
「猫が朽ち果てようが交通規則は遵守すべきだ。そうおっしゃりたいのでしょう?では何故、少女は私の目に気高く映ったのでしょうね。」
「・・・」
「法に忠実であろうとするが故に人は盲目になってしまっているのかもしれません。法を遵守していれば正しいのですか?その正しさはいったい誰が決めたものなんです?多くの人に不快感を与えるぐらいならば、車に撥ねられた猫のことなど知ったことではないということですか?人が作った凶器で動物が殺されたんですよ。ほんの少しでいい、ほんの少しの辛抱でいい、何故立ち止まれないんですか、何を急ぐことがあるんですか。そんなに重要なことなんですか!巡査さん・・・法律っていったい何の為にあるんですか?人だけが快適に暮らせればそれでいいんですか?だとしたら人間は・・・いったい何様のつもりなんですかっ!!!」
「・・・」
「きっと我々が思っているよりも人間は偉くも賢くもないんですよ。生物の頂点に君臨しているだなんておこがましいにも程がある。生命が生命を重んじる。私がしたことはおかしなことでも何でもない極めて自然なことなのです。皆それをわかっているはずなのに、目に見えない余計な鎖に縛られて思うままに動くことができなくなってしまっている。あの猫を抱えている時・・・私は自分自身を誇りに思っていました。それを恥ずかしい面倒くさい格好悪いとレッテルを貼り付けて否定していく風潮に流され、無視を決め込むのが当然だと思い込んでしまう方が恐ろしいことだと思います。」

あなたは、
何故、それを選べないのですか?
どうして、当然のように受け入れてしまうのですか?
何の為に、生きているのですか?

手を握り締めて

何時の日からか漠然とした恐怖が俺を覆っていた。
大切なものを失う喪失の痛みを知った日からだろうか?
安寧の心地良さを知ってしまったからだろうか?

それでも俺は恐れの向こう側にあるはずの暖かいものを欲しがった。
ギョロリとした目をぎらつかせながら誰も必要としない強がりの風体でそいつを求めていた。

俺には誰よりも人が必要だった。
でも、ただの一度だってそいつを手に入れることは適わなかった。
口ばかり達者な人々が希望をちらつかせてくる。
だが、誰一人として俺が差し出した左腕を掴もうとはせずにせせら笑うばかり。

とても好きですよ。信頼してますから。あなたが必要なの。いつか会いましょう。また明日。
全ては手の届かない幻想に過ぎない。
俺は形としての結果が欲しかったのに。
言葉だけの思いやりならば、いっそ傷つけあうだけの関係でありたかった。
次第に偏屈に塞ぎこんでいく己の心。

諦念を抱え夜を彷徨うばかりの心に容赦なく嫌悪が襲ってくる。
今の自分を他人が評価してくれないのは当たり前のこと。
俺を覆っているものを剥ぎ取っては消えていくばかり。
その中に俺自身を求めてくれた人は一人でもいたのだろうか?

奈落の果て。
どん底の今、何も身に付けていない剥き出しの俺を誰かに認めて欲しかった。

そんな中に突然訪れた一片(ひとひら)の光。
彼女がしてくれたのは至極当たり前のことだった。
俺から目を逸らすことなく正面を向いて話すこと。
互いの欠点を指摘し合い、転んだ時には手を差し伸べ合うこと。
歪んだ過去も包み隠さずに共有しあうこと。

嬉しかった、ただ嬉しいと思った。嬉しかったはずなのに何故か涙が零れた。
例え明日には失われる命だとしても、俺はこの道を選んで良かったと思うだろう。
今までの苦労が報われた瞬間。

けれども、俺がこのまま依存してしまっては彼女の真摯な想いを蔑ろにすることにも繋がりかねない。
彼女は俺を必要としたわけではなく、
彼女は誇り高き生物のまま死を選べる人であるから、俺の愚直な生き方を肯定したに過ぎない。
それに、ただべったりと寄り添うことが必ずしも互いの存在を認め合うことには繋がらないだろう。

静かに別れを告げた後、別々の方向を目指して歩みだす。
ゆっくりと、そしてしっかりと。

もう会うことは無いであろう二人。
それでもありがとうと云いたい。
あなたの手は俺が思っていた以上に小さかったけれど、とても暖かく俺を包んでくれた。

言葉は要らなかった。
手を握って欲しかったんだ。
だから嬉しかった。

ブラックアウト

ふっふっはっ、ふっふっ・・・
いったい何処まで続くんだ、この直線は・・・先が霞んで見えるじゃないか・・・はっはぁ、落ち着け、呼吸を整えろ。焦ったって仕方がないんだ。ふっふっ、はっはっ・・・。冷静になって考えろ、次の角を曲がり終えるまでにウィルモッツを捉えてやる。奴は峠のアップダウンで相当参っているはずだ。その証拠に膝が上がっていないし、表情もかなり険しいものになってきている。そうやってポーカーフェイスを気取っても無駄だ。ふっふっ・・・はっ・・・。確かに俺も苦しい。視界の端が歪み、赤く染まってみえるのはレッドアウトの兆候。限界は近い。だが奴だってそれ以上に苦しいはず。このレースは、先に己に屈したほうの負けだ。負け、負けるわけにはいかない。俺は、負けるわけにはいかない。ハムとソーセージばっかり喰ってるような奴に負けてたまるか。くたばれ、くたばっちまえ・・・ふっふっ、はっ、ふっ・・・

・・・・・・。

自分の目で確認したわけではないが、中継者や観客の様子を見ると後続はかなり離れているようだ。つまり、こいつとのマッチレースさえ制すれば、俺の勝利は揺ぎ無いものとなる。金と銀、たかが色の違い。だが、俺は今までの人生の全てをそれに費やしてきた。食べたいものも食べず、遊びたいときに遊ばずに耐え忍んできた。歓喜と栄誉、ただそれを掴み取るために。ふっふっ、はっ・・・

・・・ぃ・・・っ。

ワーワー、ワー、バサッバサバサ、ワー
っちきしょう、叫んだって聴こえねぇっつうの。いったい何が楽しくて沿道まで出てくるんだ?どうつもこいつも同じ顔しやがって。視界の端に旗がチラついて鬱陶しいんだよっ。はっ、ふっふっ、はっ・・・。よしっ、曲がり角だ。ここだ、ここで勝負をかける。心臓が破裂したって構うものか、足を上げろ、手を大きく振れ。理屈は通じない。俺の細胞、その全てを注ぎ込んでやる。よしっ、よしっ、ウィルモッツの野郎、早くもついてこれないじゃないか。直ぐに諦めさせてやるよ。スパートだ、全てを終わらせてやる。たった一つの勝利、勝利が俺の全てを変える。

・・・おいっ、おいっ、しっかりしろ!!聴こえるか?

スタジアムに入ったとき、群集は歓喜の声で俺を迎え入れるだろう。その後に国旗を掲げてウィニングロード。インタビューに次ぐインタビュー。凱旋して落ち着いたら、雪菜を連れて海へ行ってやるんだ。約束だもんな。あいつには今まで何一つ楽しい思いをさせてやれなかった。あと少し、あと少しで全てが終わる。だから、もう少しだけTVの向こうで待っててくれ。

ダメだ・・・。救護班、早く酸素吸入器を!痙攣が始まっているから自立呼吸は無理だ。おいっ、聞こえるか?まずい、レヴェル3に入っている!

嘘のように足取りが軽い。まるで羽がついたようだ。音が消え、景色がスローモーに流れていく。ウィルモッツは何処だ?相当引き離したのか?奴の荒い息遣いも聴こえなくなった。ラップは?いや、いいか・・・ここまできたら関係ない。後に残された仕事はゴールテープを切るだけなんだから。まだ、スタジアムは見えない・・・あと少し・・・

遅いぞお前ら!痙攣は収まったが意識の混濁が激しい。そっと運べ、いいか、そっとだぞ?

ああ・・・スタジアムだ・・・挫折から這い上がって、ここまで・・・国民の期待に応え・・・栄光・・・

ラルゴ -The remake of "the dog of winter"-

空風吹き荒ぶ冬の夜のこと。
ガードレール脇の芝生に痩せこけた野良犬がポツンと座っていた。
その野良犬がまだ誰かの飼い犬だったとき、家族からは親しみを込めて「ラルゴ」と呼ばれていたが、今の野良犬をそう呼ぶ人間は誰もいなかった。

車の群れが轟音を響かせながらラルゴの目の前を通り過ぎてゆく。それは何かこの世の者ではない恐ろしい怪物を連想させたが、道路に飛び出しさえしなければ怪物は危害を加えてこないことをラルゴは知っていたので、首輪に付けられた鈴がリンリンと寂しげに鳴るのを身動ぎもせずに黙って聞いていた。

不快な煙を排出していく車の群れが途切れがちになってきた頃、道路の向こう側から大勢のくたびれた背広達がやってくるのが見えた。己の足元だけを見つめながら家路を目指して黙々と行進する背広達は、きっとゼンマイ仕掛けの人形なのだろう。

うあああううあ

突然一人の背広が顔を真っ赤に染めて叫びだす。油でも切れたのだろうか・・・。赤らめ顔の叫びは次第にか細くなり、最後に蚊の鳴くようなうめき声を上げた後その場にうずくまって動かなくなった。錆びた鉄の塊。永遠に。

背広達を見てラルゴは自分に優しく接してくれたパパと呼ばれる人の顔を思い出したが、今のラルゴには温もりが失われていたので、それをどう表現すれば良いのかわからなかった。ラルゴがブルリと身震いをするとパパの顔は霞んで遠く消えていった。

それから暫くすると幾羽かのカラスがラルゴの元にやってきた。カラス達はうずくまった背広の肉を啄ばみながら世間話を繰り広げたが、それはラルゴにとってはママの話と同じぐらい興味のわかない話題だったので、月に向かって大きな欠伸をすると両手を前に突き出して楽なポーズを取ることにした。

気まぐれな一陣の風がラルゴの尻尾を揺らし芝生を揺らしていく。

ラルゴが一番楽しみにしていたのは、コウスケと呼ばれる男の子と互いの息が切れるまで走り回る「追いかけっこ」という遊びをすることだった。濃厚な草の匂いと照り付ける太陽の匂いが心地良い。ラルゴはそんな日々が延々と続いていくものだと考えていたが、ある日突然コウスケは白い車で何処かへと連れ去られていき、それっきり家に戻ってこなくなった。

パパもママもコウスケも居なくなり一人ぼっちになったラルゴは行く宛てもなく街を彷徨い、疲れ果ててこのガードレール脇の芝生の上にやってきたのだが、ラルゴに気を払うものは誰一人としておらず、やがて終末を示唆する気の遠くなるような長い長い沈黙と静寂が訪れた。

何処までも続いていく現実という非情な道。
周囲の喧騒により浮き彫りになる孤独。

ラルゴは哀しそうな瞳を湛えながら、ただじっと道路を見つめていた。