不穏な雲に覆い尽くされた海岸線に一人の男が立っている。
時おり襲いくる突風に足元をふらつかせながらも、荒れ狂う波をじっと睨みつけて何事かを考え込んでいるようだった。
一歩、二歩、男は前へと足を踏み出す。
その一歩がどれだけ遠かったのだろう。
温もりに囲まれたまま殻を破ることを何処かで躊躇っていた。
歩み寄ることができなかった。
互いに傷つかない距離に居心地の良さを感じ、それが続いていくことが当たり前だと思い込んでいた。
苦悩する心を、察することも分かち合うこともできなかった。
何もかも失った今だからこそ、こうして踏み出すことができる。
靴を脱ぎ去り、感触を確かめるようにして進んでいく。
どうして掛け替えの無いものは失うまで気付けないのか。
失ったから後悔をするのか。
わからない。
まるで何かに誘われるように歩を進めていく男に、寄せてくる波が足に触れた瞬間、
電流のように痛みがはしり、乖離した意識が現実へと引き戻される。
ガラスの破片で足を切ったようだ。
滴る赤い血。
波がそれを飲み込んでいく。
運命を越えて混ざり合えばいい。
見渡す限りの黒々とした地平線を前にして不思議と恐れは無かった。
絶え間なく変化していく雲。
全てを覆い尽くす波。
最後の光景。
もう暫らくすれば君の元へ。
桜、桜が見たかった。
桜の木の下で君の子供を抱え上げて、天に向けて高々と翳す。
太陽の子。
それを見て微笑む君。
零れ落ちる涙。
ああ・・・。
突然、ふっと風の凪ぐ瞬間が訪れる。
唐突な静寂に一瞬思考が停止する。
そして、視線を上げ…
う、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!
沈黙を切り裂くように男が咆哮を上げると同時に、身の丈を超える圧倒的な波がその姿を飲み込んでいった。
ためらうことさえ許されずに、ちっぽけな何かはその存在を奪われていく。
あっけないほど簡単に。
だが終焉とは本来こう在るべきではないだろうか。
目的を見失い抜け殻となった身体や心にいったい何を求めるというのだろう。
空っぽのまま何となく過ぎていく日常。
何処までいっても沸点の見当たらない温度に支配されたまま。
それが生の全てだと言うのならば、いったい誰が死を咎められるというのか。
何もない。
もう何も残されていないのだから、
見放して欲しい。
どうしても、
手を握りたかった。
ただ、それだけ。
それだけが、なごり惜しい。

波が去っていった後、砂浜に残された僅かな窪み。
男が何年もかけて積み上げてきた足跡(そくせき)も、また次の波で浚われていく。
そこに男がいた痕跡さえ許すまいと何もかもを奪い去った海は、残酷なまでに無表情を貫いていた。