今日という一日

我が家の猫がニャーニャーと騒いでいる。

何事かと訝しげに思いながら視線をそちらに移すと、ご飯茶碗を右腕で叩きながら「おなか減ったぞー」とシュプレヒコールを繰り返している模様。
外界で汗水垂らしながらあくせく働いていた自分が、一日中室内で物思いに耽りながら寝そべっていた猫に命令されることに対して何処か釈然としない気持ちが拭えなかったが、「食べなければ死ぬ」という激しい主張に負け、渋々と重い腰を上げて晩御飯を用意した。

猫は「ニャー」と感謝の言葉を述べると、次の瞬間には僕の存在を消してしまったかのように、ガリガリと音を立てながらご飯を貪り始めた。その姿を見て「君は本当に我侭三昧だねぇ」と苦言を呈しながらも、自分の頬が柔らかに緩むのを感じていた。

そして今日という一日が終ってゆく。
思っていたよりも悪くない。

Be Happy

「君はもっと君にしか出来ないことをすればいいじゃないか。」
「あたしは仕事に貴賎があるとは思っていないの。テーブルの上にお皿を並べる人だって、眉間に皺を寄せながら書類に判子を押す人だって、大した違いは無いと思うわ。」
「テーブルに皿を並べるのは誰だってできる。だが君は選ばれた人間なんだ。人々の羨望の眼差しを浴びる義務がある。」
「何故そんなことが断言できるの?」
「傍で何年も見てりゃ自ずとわかる。君の魅力はウェイトレスなんて枠には収まりきらないんだよ。君は僕達とは違う世界で生きるべきなんだ。」
「つまりそれは、今は死んでいるように生きているって事?」
「そうじゃない。荒廃的なこの街と君があまりにもそぐわないってことさ。それにウェイトレスなんて何年続けたって何の足しにもならない。君はもっと積み重ねて前へと進む道を選ぶべきだ。」
「云いたいことはわかるけど、食卓に並べられた七面鳥だって丸焼きになる直前まで餌をくれと強請(ねだ)っていたはずだわ。ウェイトレスを続けることに意味がないからと云ってそれを放棄することには繋がらないんだと思う。それに、この仕事を辞めたら明日からご飯が食べれなくなってしまうし。」
「どうしてそこまで頑なに拒否するんだ?」
「あなたの云い成りになりたくないからじゃない?あたしはあたしが選んだものしか信じない。指示されたり与えられたものだけが全てだと考えてしまう人間になるのはご免なのよ。例え明日からあなたが示してくれた道を選んだとしても、それじゃ全く意味がないの。あなたに促がされて戸惑いながら進んだ道とあたしが掴み取った道は、一見見た目は変わらないけれど中身は全く異なるものなのよ。」
「・・・」
「ああ、別に怒っているわけじゃないの。凄く嬉しい言葉だと思う。あたしの可能性を信じてくれているのだから。でもあなたが描く成功があたしの幸せに繋がるという保証はどこにもないでしょう?」
「幸せ?じゃあ君の幸せって何だ?」
「さぁ・・・きっと暖かくて、転寝をしてしまうものよ。」
「それが欲しいのかい?」
「ええ。それにね、誰だって手に肉刺(まめ)を作ってまで働きたいとは思わない。少なくとも今日みたいに雪の降る日に皿洗いで手にあかぎれが出来るのは避けたいわ。ただ、自分の力で生きていることを実感することのできるこの仕事があたしはそんなに嫌いではないの。」
「じゃあさ・・・」
「その先は云いっこ無しよ。同じ過ちを繰り返すのは愚か者のすることだもの。あなたがあたしを買ってくれている事には感謝しているけれど、あたしの後悔のぶつけ先は常にあたし自身でありたいの。」
「なんだか君の主張は矛盾しているな。仕事に貴賎が無いと云ったり、苦労から逃れたいと云ったり。」
「ええ、自分でもそう思うわ。吹けば飛ぶような軟い信念しかないから言葉が定まらないのでしょうね。心変わりなんてしょっちゅう。それでも一つだけ確かなことがあるとしたら、あたしは自分の思いに忠実であるってこと。それだけはこの身体が無くなるまで変わらないわ。」
「人はそれをエゴと呼ぶね。」
「自分のエゴに忠実でない人間なんて居るの?」
「抑圧に耐え忍んでいる人間は居ると思うよ。」
「それは縛られていることに心地良さを感じているのではなくて?全てを自分で選ぶことは殊の外億劫だもの。」
「なるほど。拘束されていることに対して不平不満を述べる人間に限って、いざ自由を与えられると狼狽するものだからね。」
「ええ。ねぇ、なんだか眠くなってきたから続きは明日にしない?それにさっきからあなたの手があたしの肩に当たって邪魔なの。ベットは半分ずつ使うって約束でしょ?」
「明日か・・・。こうやって少しの不満と希望をぶつけあって明日を迎えられること。これ以上いったい何を欲しがることがあるのだろう。人は贅沢だ。環境に慣れると直ぐに次を求めてしまう。理想の未来を思い描くあまり、今を蔑ろにしてしまう。」
「変な人。何かあったの?」
「何もないよ。君の率直な言葉はいつも僕に安堵を与えてくれるってことだ。」
「ほら、明日も早いんだから灯りを消すわよ。」
「ああ。」

そして沈黙が時を支配した。

灯りの消えた部屋に残ったのは重なりあう二つの手の感触。
どちらから共なく寄り添う二人。
ただ、それだけの事。
でも、それが全てだったことに気付くにはもう少し時間がかかる。

ときがふたりをわかつまで。
きょうは、ねむりに。
きょうは、おやすみ。

呼吸

東の空を眺めながら、
羽根を仕舞う鳥達

適えられること、
あと幾つ残っているのだろう

伸ばした指の先に、
触れたものは

弾け飛んだ泡の中に、
託したものは

笑いながら泣くことを覚えた、
月の無い夜

誰も傷つけずに進むには、
この道は長すぎて

少しの笑いと、少しの苦しみ、
君の名を重ねることは、もう許されない

忘れられないこと、
あと幾つ残っているのだろう

君の温もり、
生きていたこと

冷たい海

忘れようとする度に記憶の中で鮮明に蘇る、冷たい海岸線を眺めながら途方に暮れていた。音も立てずに漣が打ち寄せられては消えてゆく。何処にぶつけて良いのかわからない苛立ちが募り、憂鬱さを悟られないように勢い良く足で砂浜を蹴り飛ばした。

「生きとし生ける者の業からは逃げられない」
「逃げる必要など無いの。何もかも棄ててしまえば楽になれるのに」

定まらない生き方ばかりを選んで居場所を失い、「まるで掴めない理想を夢想する旅人のよう」と笑われたのに、まだ流木のように漂う生に甘んじている。

「幸福で満たされた生であるならば、襤褸布を纏い不幸を追い求めたい」
「それは何故なの?」
「欠けたものを埋める為に人は生きるから」
「物事は捉え方一つで幸福にも不幸にもなり得るのよ」

描いた未来に向かい踏み出すことさえ恐れる日々が続き、思想に塗れて強烈な死への傾倒を呟く。色を失った太陽に飲み込まれて、白濁とした夢を見るのは、終ることのない旅路の果て。

「死は、都合の良い想像が創り出した妄想の楽園なのだろうか?」
「思い詰めないで。この生に初めから意味などないのだから」

愛を求めることは脆弱な己を吐露するかの如くであり、全ての存在が持つ意味を変えることなど出来はしないと知りながら、時間軸を彷徨い続ける。

「愛していたのに」
「さようなら」

それは誰の温もりも必要としなくなった、冷たい生命の鼓動。

flow

地図にも残らない場所で
裏切れるほどの愛を手に入れて
雲の隙間から零れる光を求めた
また何かを忘れて生きていく

答えを求める会話が繰り返されて
いつしか溜息さえ凍える景色にも慣れて
何が伝えられるんだっけ?
何を伝えたいんだっけ?

欲しくもないリアリティ置き去りにして
云い掛けて噤んだ言葉、再び奏でてみないか

辿る日々に終わりが訪れたら
思い出すのは焦(や)けた太陽の匂い

定められた路なんて何処に記されていたのだろう?
誰に従って選んで来たのだろう?

流れるままに導かれても
軌跡が残るならば
夢見がちで構わない

寄せ集めの羽で浮かび上がって
あの空へと飛び立つイメージ

握り締めて行けばいい

君と僕で

大切なことを忘れて、
軽々しく笑ってしまうような口なら、
要らないんだ

不必要なものを切り棄てる、
前しか見えない目など、
欲しくはないんだ

何処までも埋まらない距離を、
君と僕で打ち消してやるんだから

冬の黄昏

光の嘆き 黄昏が舞い降りる
声を枯らした烏の声 生命の終わり

破れたポストカードに記されていた言葉
「神の御心をあなたに」
そこで途切れている

凍りついた街 手の平で息吹を感じる
琥珀色の魂 それだけを携えて

褪せた壁に書き殴られた言葉
「全ては運命の」
そこで掠れている

雑踏の中 ささやかな温もりを信じて
歩いてゆく 何処までも

悲しみと 何処までも