灯りを消して、月の光に埋れるように暖かい湯の中へと身体を沈める。
手探りで蛇口を捻り湯を止めると、辺りはしんと張り詰めた静寂に支配された。
耳を澄ますと遠くから微かなエンジンの震えが聴こえてくるだけで、全ての生き物は排されたようだ。
心地良い。こんなにも居心地の良い孤独はいつ以来だろう。
この瞬間が失われてしまうことを惜しく思い、気配を潜めながら頭まで湯に浸った。
生物であることを放棄した私からは、煩わしい余分なものが削ぎ落とされ、やがて無に帰していく。
ああ、そうか。そういうことだったのか。
月の音
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「愛している」と「信じている」はどうして切り離せないのだろう
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暖かいシチューを作ろうとして、
牛乳でルウをかき混ぜて、適当にじゃがいもと牛肉を放り込んで、
隠し味にコーンポタージュの素なんて入れたりしてみたのだけれど、
ぜんぜん美味しくないなと思っているうちに
鼻水が出てきて、止まらなくなって、
なんだかしれないけど、ぐしゃぐしゃになったまま、
もういいやって、
思いきって全部出してしまえばすっきりするんじゃないかって、
テーブルに乗ったお椀を睨みつけながら肩を震わせていた。
ほんとに、ぜんぜん美味しくないなって、
こんなんじゃ、もう意味がないなって、
最後に食べたのはいつだっけ、
もう思い出せない。
すごく、悲しくて、
僕は泣いた。
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こんな自分だってわかってはいたけれど、
それでも誰かと一緒にいたかった。
こんな自分と一緒にいてくれるはずもないのに。
握り締めた手は小さくて、
僕を信じさせるには充分だった。
孤独の月
バスターミナルに設置されたベンチに腰掛けながら、地べたに膝を抱えてうずくまる浮浪者を見下ろしていた。
特に何か目的があったわけではない。
すべきことが無いという観点からみれば二人は似たようなものだ。
明確な違いは所持金の有る無しぐらいか。
私の財布には一万円が入っている。
彼の財布には穴が空いている。
たった紙切れ一枚の差。
だがこの世界でその差を埋めることは容易いことではない。
浮浪者は身じろぎ一つせず、またそれを気に留める者も居なかった。
もう死んでいる。
不謹慎だろうか。
では、生きている?
飢えを凌ぐために烏と争い、寒さから逃れるために毛布を求める。
いったいその先に何があるというのだろう。
何もない。
例え何もないとわかっていたとしても、
それでも人は生きてしまう。
希望が人を生かすわけではない。
絶望が人を殺すわけでもない。
記憶の無い海にたゆたっていた頃から、ぼんやりと感じていた。
死ぬまで生きることに大した理由なんて無い。
・・・
違う。
違う、そうじゃない。
こんなのはまともな奴の考えることじゃない。
孤独に浸り、全てを背負い込もうとすればするほど、自らがバランスを崩しかけていることになかなか気付けない。
決して立ち止まり澱んではならない。
それが社会で生き延びるためのルール。
どこまでも澱のように沈んでいく思考から逃れるべく、私はその場から離れることにした。
重い腰を上げ軽く伸びのような仕草をした後、うまく動かない方の手でポケットを探り、煙草をベンチにそっと置く。
夜の帳のためか浮浪者の瞳は真っ黒に彩られており覗き込むことは適わない。
こんな醜い考えで偽善者も何もあったもんじゃない。
急に胸が締め付けられたかのように苦しくなる。
自分が楽になりたいから、優越感から、そういう行動を取ったに過ぎない。
自分、自分、自分のことばかり。
そうやって罵られたことを思い出す。
そうだ。
他にかまけるほどの余裕は与えられていない。
生きている。
それで十分じゃないか。
他に何が必要だというんだ。
途切れる気配をみせない閉塞感のトンネル。
何か切欠さえあれば。
そんな漠然とした期待を抱きつつ今日まで過ごしてきた。
まだ、出口は見えてこない。
もうこのやり方では抜けられないこともわかっている。
きっと、出口は見えないまま。
けれど、今さら引き返す気にもなれない。
路傍に転がっていた石を蹴り飛ばしながら、猫背のまま家路をたどる。
頬に触れる風は冷たく、冬の到来が近いことを告げていた。