天使にだって、なれるって

猫が死んでいたんです。
十字路の真ん中でずぶ濡れになりながら辛うじて生物であったことが認識できるような・・・それぐらいボロボロな状態で。
もちろん走っている車達は目もくれませんよ。猫のことなど気付いても気付いてなくともお構いなしです。
歩道を歩いている人間も皆同じでした。
罪の分散ってやつですよ。
一人で背負うには重たすぎるが大勢で分担すれば罪悪感は薄れていく。
自分が責任を負うような煩わしい事態だけはなんとしても避けたいという気持ちが傍観者であることを選択する。
私も同じです。
不快な雨に加えてあの寒さですからね。
一刻も早く家路につきたい一心で猫が倒れているという事など気付きもしなかった。
いや、正確に言えば気付きたくもなかったんでしょうね。
私はそういう人間ですから・・・。
それを過ちだと気付けたのはある少女のお陰なんです。
全く嫌になってしまいますよね。
なんでこんな当たり前のことに今まで気付けなかったのか・・・。

男は深いため息を吐き出すと、濡れそぼつた背広から眼鏡を取り出して傍らに置いた。
外の雨は止む気配を見せるどころか激しさを増すばかりで、建て付けの悪い交番の戸が軋む音だけが室内に静かに響いている。
ストーブで暖を取りながら遠くを見るような目つきで男は話を続けていく。

あそこは比較的交通量の多い場所ですよね・・・?ええ・・・。いつも赤信号が長くて辟易しています。その時もなんとなしに行き来する車達を眺めて時間を潰しながら、信号が青に変わるのを待っていたんです。そうしたら突然一人の少女が淡々とした面持ちで、まるでそれが当然であるかのように十字路の真ん中に向かって歩を進めていったのです。その突拍子も無い行動に最初は車達もうろたえクラクションと水飛沫を浴びせていたのですが、少女はそれらを意に介する様子も無く真っ直ぐに猫の傍に歩みると、一瞬天を仰いだ後、猫を庇うようにしてゆっくりと覆い被さっていきました。
すると不思議なことに・・・あれを何と表現したら良いのでしょう。とても私の言葉では全てを説明することは出来そうにありません。云うならば、音が失われたとでも表現すればいいのでしょうか?クラクションの音も、雨粒がアスファルトを叩く音も、人々のざわめきも、全てが少女の一挙一動に吸い込まれていってしまったのです。それはまるで映画のワンシーンを見ているようでした。モノクロに彩られた光景の中、音も無く、赤いワンピースを着た彼女の動きだけがスローモーに流れてゆく。
猫を抱え上げた少女の目からは大粒の涙が溢れていました。どうして降りしきる雨の中、涙が流れているのがわかったかって?それを説明できればこんな苦労はしていないですよ。美しい、それはあまりにも美しすぎる黒い瞳でした。少女が言葉を発することはなかったのですが、見ている者の罪悪感をかきたてるにはそれで十分だったのです。気が付くと私は少女に導かれるように車道へと飛び出していました。ええ、ええ、普段はもちろんこんなことをする人間じゃありませんよ。電車待ちの列に横から割り込む人がいることに気付いても見て見ぬ振りができる善良な一般市民です。でもその時はそんな理屈や計算なんかよりも、とにかく何としてでも彼女との距離を縮めなければならないと思ったのです。少女が感じているであろう死に対する痛みと私の麻痺した感覚の差を少しでも埋めたかった。
ねぇ・・・巡査さんは『生命の重さ』について考えたことがありますか?不平等で溢れ返ったこの世界で全ての生命が等しい価値を持つなんて・・・そんなわけないじゃないですか。誰しもがその禅問答にも似た問い掛けを己に科し迷った挙句、大なり小なり目を背けてしまうのだと思うのですが、恐らく彼女はそこから一歩たりとも逃げ出さなかったのでしょう。そうでなければあの光景はとても説明がつかない。

「それで、お前はあんなことをしたのか?」
「ええ、でも後悔はしてしませんよ。あの瞬間、間違いなく私は生きていた。延々と社会に殺され続けていた私が意思を持ち・・・」

ザーザー・・・こちら○○・・・ザー、応答せよ、応答せよ。

「あ、無線ですよ。」
「わかっている。はい。こちら○○。・・・・・・ええ、そうですか、わかりました・・・。ご苦労様です。」
「どうしました?」
「良く聞けよ。」
「はい、何でしょう。」
「あの場に居た人間に確認を取ったが、誰一人お前の言う少女を見たものはいなかった。それが事実だ。」
「そうおっしゃるのでしたら、そうなんでしょうね。」
「・・・?」
「あの少女が生きるには、あまりにもこの世界は濁っている。」
「ついに気でもふれたか?」
「居るとか居ないとか、偽物だとか本当だとか、正しいとか誤っているとか、そんなことは関係ないのですよ。探していた答えがそこに在った。それのみが私にとって唯一の真実なのですから。もちろんこの話を罪を逃れるための言い訳と捉えられても結構。報告書にそのようにお書きください。ただ、あの一瞬、たったの一瞬ですが私は私の想いに忠実であれた。そんな気概はとっくの昔に失ってしまったものだと思ってたのに・・・。私はそれが嬉しいのです。」
「ただな、お前のやったことは・・・」
「猫が朽ち果てようが交通規則は遵守すべきだ。そうおっしゃりたいのでしょう?では何故、少女は私の目に気高く映ったのでしょうね。」
「・・・」
「法に忠実であろうとするが故に人は盲目になってしまっているのかもしれません。法を遵守していれば正しいのですか?その正しさはいったい誰が決めたものなんです?多くの人に不快感を与えるぐらいならば、車に撥ねられた猫のことなど知ったことではないということですか?人が作った凶器で動物が殺されたんですよ。ほんの少しでいい、ほんの少しの辛抱でいい、何故立ち止まれないんですか、何を急ぐことがあるんですか。そんなに重要なことなんですか!巡査さん・・・法律っていったい何の為にあるんですか?人だけが快適に暮らせればそれでいいんですか?だとしたら人間は・・・いったい何様のつもりなんですかっ!!!」
「・・・」
「きっと我々が思っているよりも人間は偉くも賢くもないんですよ。生物の頂点に君臨しているだなんておこがましいにも程がある。生命が生命を重んじる。私がしたことはおかしなことでも何でもない極めて自然なことなのです。皆それをわかっているはずなのに、目に見えない余計な鎖に縛られて思うままに動くことができなくなってしまっている。あの猫を抱えている時・・・私は自分自身を誇りに思っていました。それを恥ずかしい面倒くさい格好悪いとレッテルを貼り付けて否定していく風潮に流され、無視を決め込むのが当然だと思い込んでしまう方が恐ろしいことだと思います。」

あなたは、
何故、それを選べないのですか?
どうして、当然のように受け入れてしまうのですか?
何の為に、生きているのですか?